初めまして。
キリンです。
当ブログをご訪問くださり、ありがとうございます。
お初の方ばかりだと思いますので、わたしの自己紹介をさせて頂きます。
◉ 名前: キリン
◉ 所在地: 愛知県
◉ 趣味: 映画・ドラマ鑑賞、写真、食べること、お酒、YouTube、モノづくり
◉ 好きなこと: 空や海を眺めること、太陽を浴びること、風を感じること
◉ 大好きなもの: 犬(特にゴールデンレトリバーには目がないです)
◉ 苦手なこと: 地図を読むこと (極度の方向音痴です)
汁物を運ぶこと (からくり人形の方が上手いいと思います)
料理 (自分で作ると美味しくないです)
カラオケ (自分で何の曲を歌っているのか分からなくなります)
虫類 (見つけると心臓バクバクします)
接客 (お客さんが来ると焦り出します)
わたしは、30代の独身女性です。
2011年の春頃にうつ病と診断され、その何年か後には統合失調症と診断が変わりました。
そしてHSP、アダルトチルドレンでもあります。
そんなわたしの簡単な話をさせて頂きます。
発病期
当時は仕事が忙しくお昼の休憩も、急いでご飯を食べたらそれで終わり。
30分も取れていませんでした。
でも、同僚のみんなもそんな感じでしたし、その環境に疑問を抱くことさえありませんでした。
それから色んなことが立て続けに起きて、どんどん忙しくなり、わたしは壊れていきました。
そして、そんなわたしに下された診断はうつ病でした。
何となくどこかでそうなるんじゃないかという思いがあり、診断結果にはあまり驚かなかったように思います。
それよりも、ホッとした安堵の気持ちの方が強かったのです。
それからわたしの闘病生活が始まりました。
結果10年以上に渡る、長い苦しみの闘病生活が。
病状はどんどん悪化の意図を辿ります。 (今となってはなぜそうなったのかよくわかりますが)
無駄な抵抗期
仕事を辞めてから1〜1年半くらいは、親元に帰ることを拒んでいました。
当時住んでいた大阪が性に会っていましたし、地元よりも大阪の方が友人もいるからです。
しかし無職になり、生きていけないということで、親に相談しようと一度実家に帰りました。
親に病状を説明し、しばらく大阪で養生したい。 そんな感じの話をすると、当面は生活の援助をすると言ってくれました。
その時の親には今でも本当に感謝しています。
しかしわたしも親も、この病気について少し甘く見ていたのも、また事実です。
思っていた以上に、そんなに容易く良くなっていかなかったのです。
どんどん身体的にも精神的にもできないことが増えていき、苦痛の日々が始まりました。
- 昼夜逆転
- 手の震え
- 動機
- 食欲もないまま
- 口の渇き
- 電車に乗れなくなる
- 音に過剰に敏感になる
- TVを見れなくなる
- 現実的な夢ばかり見るので夢と現実の境界があやふやになる
- 好きな映画も1本観る集中力と体力がなくなる
- 表情がなくなる
- 一日の殆どを横になって過ごす
- 感情が理性でコントロールできなくなる・・・ など
こんな苦しい生活の日々でした。
それでも周りの人たちは優しかったのです。
苦しい、辛い、と出口のないわたしの話に何時間も耳を傾け続けてくれました。
本当に感謝しかありません。
しかしその甲斐も虚しく、わたしは良くなっていかなかったのです。
そうして、いよいよ実家に連れ戻されることとなりました。
何をやっても上手くいかない期
強制送還された後、古い友人の紹介で、週1日3〜4時間ほどのバイトを始めました。
まだまだ精神も身体も絶不調なわたしにとっては、これでさえもやっとでした。
こうしてわたしの転職を繰り返す日々も始まってしまいました。
本当に色んな仕事をしました。
しかしどれも長くは続かず、辞めては養生し、そしてまたどこかに勤める。
そんな苦しい期間を何年も続けました。
当然、親や周囲からは白い目で見られ、時には人として甘いなどという叱りの言葉も幾度となく受けました。
そういうことを言いたくなる気持ちも頭では分かりますし、なぜ自分は普通に大勢多数の人たちができることがこんなにもできないのだろう?と自分を社会不適合者として責める毎日でした。
責めて、責めて、責め続けて、いっそ死んでしまいたいと強く思ったことを今でも覚えています。
どうしても、『普通』ということが出来なくて『自分は頭がおかしい。ぶっ壊れている。まぁ、だから病気になったんだろう』と常に思っていました。
生きることに疲れてしまっていたのです。
どうしても仕事が続けられない。
その大きな悩みを理解してくれる人は誰もいませんでした。
『大人として〜』『人として〜』そんな枕詞で叱責されるのです。
そんな言葉でがんじがらめになったわたしは『普通』という言葉が大嫌いになっていきました。
しかし、たった一人、他の方とは違う言葉でわたしを救ってくれた人がいます。
『あなたはマイノリティだからねぇ。』
わたしはこの言葉に幾分か救われました。
『マイノリティだから理解されにくいんだな。普通を追いかけなくても良いんだ。』
そう思えるようになったのです。
ヤケクソ期
自分をマイノリティと認識することによって、ほんの少し自分を許すことができるようになっていきましたが、現実は何も変わらず、相変わらず職を転々としていました。
色んな方からのアドバイスを自分なりに実践したりもしたのですが、どれもフィットせず残念な結果ばかりでした。
そんな時に、昔働いていた場所のことを思い出します。
そこは福祉関係の職場で、昔からの友人が働いているところでした。
わたしはその友人に仕事を紹介してもらってアルバイトをしていたことがありました。
そこで耳にしていた単語の一つに『就労移行支援A型・B型』というものがあり、詳しく聞いてみることにしたのです。 (現在は就労移行支援と就労継続支援A・B型というものがあるようです)
当時の就労移行支援A型(現・就労継続支援A型と思われる)は障がいのある人が働ける場所で、わたしの住んでいる市の福祉協議会のスタッフさんが一人担当としてついてくれるサービスでした。
半ばヤケクソにもなっていたので、障害者手帳の申請をし、そのサービスを受けることにしました。
わたしの市にはA型の施設がなかったので、ギリギリ通える範囲にある施設に行くことになりました。
就業時間は9時30分〜14時半の昼休憩1時間で、4時間の勤務。 週5〜6日の出勤でした。
もちろん他の従業員も同じで、みんな何かしらの障がいを持っている方達です。
自分は一般社会では生きていけないと思っていましたから、もう障がい者施設で働くしかないと思い、そこに通うことになりました。
回復期
就労移行支援A型で働いていた時は、すごく楽しかったのを覚えています。
年齢も性別も障がいもバラバラの人たちと過ごすのは面白かったです。
それぞれがそれぞれを補い合い、和気藹々と仕事ができていました。
仕事内容も合っていましたし、月に一度ある福祉協議会のスタッフの方との面談も心強かったです。
職場での困り事や、自分の精神の状態、日々の生活の様子などを親身になって聞いてくれる時間がとてもありがたく、頑張ることが出来ました。
そんな毎日の中で、わたしの思考も変わっていきました。
ネガティブしかなかった考え方が、徐々に前向きになっていったのです。
そして、ある日を境に晴れ晴れとした気持ちを味わえるようになりました。
その後、少しずつ生活を見直し、早寝早起きを心がけ、良く笑うようにしていきました。
もちろん、まだ全快という訳には到底いきませんでしたが、本当に少しずつ少しずつ変わっていきました。
自分を変えようと今まで以上に情報を集めたり、実験的にやってみたりと行動できるようになったのです。
ですがそんな時、コロナ禍が突然訪れました。
わたし自身は元々引きこもりに近い生活だったので特におうち時間というものに、何の不便も感じていませんでしたが、仕事が激減しました。
出勤してもやることがない状態が続き、どうしたものか?頭を悩ませ、苦肉の策で出した案を毎日毎日消化していきました。
それはそれで楽しかったのですが、終わりの見えなかったあの頃は、一抹の不安さえありました。
そして、いよいよ退職する決意をします。
退職後はやってみたかったことにいくつか挑戦しました。
どれも大きな結果は得られませんでしたが、やって良かったと思っています。
その後知り合いの紹介で、とあるアルバイトをすることになります。
好転期
紹介してもらった仕事は大変でしたが、元々自分が学んできたことを活かせる内容だったのでなんだかんだやれていました。
一人で気ままにできることも多く、良かったと思います。
そして、この頃になると、だいぶ精神も安定することが多くなりました。
当時密かにやっていたことも功を奏したのだと思います。
ただ、そこではっきりと『自分はどこかに属して働くというのには向いていない』と気付かされるのでした。
何となく、何となく、分かっていたことでしたが、自分の中ではっきりそれを認めた瞬間がやってきました。
そして、キリのいいところで退職をして、もう一度じっくり自分と向き合ってみようと決心し、お金にならない身の回りの色んなことをやり始めるのです。
そうして月日がたった今、毎日がとても楽しく、幸せを感じられています。
側から見たら口を出したくなるような毎日かもしれませんが、わたしはこの日々がとても充実していて満足しています。
やっとスタートラインに立てた気分なのです。
生きていて本当に良かったです。
わたしが歩んできた軌跡の全てに意味があって、どれひとつも無駄ではなかったと、全ては今に繋がっているんだと、心の底から思えるようになりました。
ブログスタートの訳
こんなわたしがなぜブログを始めようと思ったのか?
それは、同じように心が重たくなって、苦しくて、悔しくて、しんどい思いをされている方がいるのなら、少しでもその方々の力になりたいと思ったからです。
わたしが経験してきた十数年を、同じように味わって欲しくないからです。
もっと短縮して回復に向かうことができると思ったからです。
そして、わたしが再び生きることに希望を持てるようになるまでの過程で得たことをお伝えできれば、何か皆さまのお役に立てるんじゃないか?と思ったので、こうしてブログを書き始めました。
わたし自身、病気になった時のわたしに教えてあげたいことがたくさんあります。
なのでこれを読んでくださっているみなさまに、もう一度希望を持って、前へ進めるような小さなきっかけになって頂けたら幸いです。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。